ここにわInterview vol.01
当たらず障らず「ここにわ盛物語」
INTERVIEW /
さとう えいすけ
大分路上観察学会会長。「トイレンナーレ」の名づけ人。日々「口実」づくりを専門として、おおいたのまちづくりにゆるくかかわる路上観察運動家。
田崎 純子 + お父さん
府内五番街で大正12年創業の老舗酒店「田崎洋酒店」大女将。おおいたトイレンナーレ2015実行委員。物腰が柔らかく誰からも愛される街の隠れたご意見番。
ーまずはトイレンナーレ後についてお話しいただけると。トイレンナーレが終わってから何か変わりましたか?
田崎 お店に来るお客さんがワインを飲んで、カメムシ臭い匂いだったら「トイレンナーレの香りがしますね」という方がいた。トイレンナーレに関わっていた人ではないんだけど、「トイレ」と言わずに「トイレンナーレ」と言う。名前が定着したということじゃないですか?(笑)「トイレンナーレ」という言葉がインプットされている人もいるんだなと思いましたよ。
佐藤 関東のアート関係の場に行くと、「大分から来ました」と言ったら「トイレンナーレ!」とみんな言ってくれるんですよね。2014年の横浜トリエンナーレのオープニングレセプションにみなさんと白衣を着て行ったら、すぐに「ハイレッドセンター」と声を掛けてもらえて、みんなで「通じるんだ!」と喜んだのを覚えています。6月に都内で記者発表をした翌日が毎月10日のトイレの清掃パフォーマンスの日だったので、赤瀬川原平さんたちがパフォーマンスした並木通りの北海道新聞社の横で総合ディレクターの山出さんも一緒にパフォーマンスをしました。
田崎 這いつくばってね。やっぱり「トイレンナーレ」という言葉は言っていかないと悪いね。
佐藤 「大分は良いものがいっぱいある。でもそれがなかなか見えづらい」と思っていて、見せたいものがあって、それに振り向かせるための部分なので、「トイレンナーレ」自体にあまり意味はないですよね。アートの知識が全然なくても、なんとなくただ「トイレンナーレ」と言っている先になにかがあるんだなと気がつく人もいる。
日本中いろんなところのまちづくりを見てSNSに辛口コメントを書いている方がいて、最初は「トイレンナーレなんて…」という記事を上げていた。誰かが、ただのダジャレじゃなくてこういう意味があるんですよと言ったら、その後なにもなかった。バックボーンがちゃんとあるということは大切なんだと思いました。ただのダジャレだということであれば、「ドウニデモナーレ」でも「ゲンキニナーレ」でもよくなってしまう。
ー実際トイレンナーレって盛り上がった感はありましたか?
田崎 やっぱりアクアパークにシンボルと言えるようなトイレ作品が出来た。外から来た人もなんだこれ?と思うようなものが出来たのは大きいよね。お店に来る人が増えたけど、ちょこっとという感じですね。
お父さん 大分市美術館の菅館長とか来てくれるようになったのは、トイレンナーレからの流れだね。
ー元々お店では角打ちはしていたんですか?
田崎 してましたよ。いままではワイン好きな人だけが来ていたんだけど、アート関係の人がよく来るようになりました。ここはワインと外国のビールしか飲ませないということだから、偏った人しか来ない。焼酎・日本酒は居酒屋さんなんかで呑んでもらえばいいから、うちはワインと外国のビールだけでしています。
お父さん ワインだけ、と聞いて帰るお客さんもいるけど、そうしておかないとなんでもかんでも来られて喧嘩でもされると困る。ワインの良いところは喧嘩や人の悪口が出ないところですね。人間をおとなしくさせる、お上品にさせる効果があると思っています。トイレンナーレという「運動」は…
佐藤 「運動」!良い言葉ですね!運動、というと「アートを活かしたまちづくり」として進めていたので、アートは目的ではないんですよね。実行委員会の人たちと何かをやることがまちづくりに繋がるということなので。そこで盛り上がることが重要だと思っていたので、ただ、アートや美術関係者だけでやったのではだめで、商店街の中でやらせてもらうから、そこに住んで商売をしている人が入ってくれたらいいなと思っていました。
ー田崎さんと園田さんって街の端と端で、老舗で代々続いているお店ですけども、この二人を選んだのは偶然ですか?
佐藤 偶然です。でも言っていたのは、アートフェスティバルが目的で知らない街に行った時、いろいろ回る中であの作品が良かった、ということもあるけども、ここみたいな場所にたどり着いたら結構嬉しいじゃないですか。はじめて大分に来て、何もないときいてたけどそこそこ街だな、歩いて見たらきれいだな、とか通りがかっこいいなと思って歩くところまでは出来ても、よくもわるくも(笑)こういう店たどり着いて「こげん店によう来たな!」という感じが出来ることは大切だと思う。
田崎 すぐ聞くよ。どっからきたん?とかなんしきたん?とか。
ー大分のイベントの中でこれは盛り上がったと言えるもの3つあげろと言われたら何をあげますか?アート以外でもいいですよ。大分の大イベントって何かありますか?
田崎 サッカーW杯(2002年)も大した事なかったもんね…。人は盛り上がったけど、人は来なかった。駅からバスでそのまま会場に行ってしまうから。フーリガン対策で自動販売機は止めろとかゴミ箱は隠せとか、シャッターは降りますかとかいろいろ聞かれて対策したのに、外国人がひとりも来なかった。(笑)
佐藤 僕は当時城址公園でイベントをしていたんですけど、2週間くらいつきっきりで。菊川怜とか、エスパー伊藤が来たりとかするイベントの下っ端をしていて、その時僕が20代で、現場をまとめていた40代くらいだった人たちが、今、偉くなっている。ビックイベントの時に、苦労した人たちが次のイベントの時には感覚をわかっていて、支える側にまわる。
田崎 私もその頃商店街の婦人部で、若草公園で物を売ったりとかしたけど…あんまり人がきた印象はないね。
ーじゃあ次のラグビーW杯(2019年)には全然期待してないですか?
田崎 全然してない。その次はオリンピックとか言ってるけど、こっちは観に行く側じゃないの。大分には来んやろという気持ちですね。東京オリンピックの頃は1964年だから当時中学生で、大分にいましたね。万博の時は東京にいたから観に行ったけどね。
佐藤 僕はサッカーW杯の経験があるので、ラグビーW杯の時にも何でもいいから、頑張るとよくなるのかなと思います。サッカーW杯の時は、写真を趣味で撮っていたんですけど、地元のカメラマンたちが、海外から注目される時に、大分に住んでいる僕らから見た大分の写真を撮ろうというカウンターのイベントをしたんですよ。僕は当時ロモというトイカメラのサークルで展覧会をさせてもらって。そんなこともあったし…地元の有志の発案から「おもてなしカラー」というのをやっていて。
田崎 「おもてなしカラー」って、真っ青とオレンジの変なきれを県庁の上からばーっと下げてた?
佐藤 多分クリストの作品(梱包されたライヒスターク(帝国議会議事堂)1995、梱包された木々 1998)があった年あたりで、なんとなくその存在も知っていたから印象に残っているんですけど。大分駅舎もその色で、県庁も市役所も高崎山のところの歩道橋にもその色をつけたりして、結構それも大掛かりでしたよね。
ー当時はそういうのを仕切るアートディレクターみたいな人がいたんですか?
佐藤 タウン誌の編集長の方とかが中心になって動いていたと思います。
田崎 トリニータみたいな青と褪せたオレンジ色だった。周りの店の人ともあれ何?と言い合ってた。
佐藤 1万人くらいに大分のおもてなしカラーは何?ってアンケートをとって、オレンジと青に決まりましたみたいな感じでしたよ。
田崎 これ!こんな色だったよ。(古地図の青とオレンジを指して)
佐藤 もっときれいな色でしたよ!
田崎 商店街にもお祭りの時にあるような門があって、それもそのおもてなしカラーになっていて…。
佐藤 それが良い悪いとかは別に、そういう大掛かりなことが出来るのがW杯だったんだなと思いました。ビックイベントの時は普段出来ないことが出来る。そういうの自体っていつやってもくだらないかもしれないけど、良いと思う人は良いし、なんとも思わない人は思わないし、ダメだってわかる人はわかるし、でも、やることに意味があるというか、やって経験することには意味があるというか。
ートイレンナーレの年(2015年)って駅ビルやOPAMが出来た年でもあって、そういうタイミングって50年ぶりという話もあったけれど。
佐藤 「50年、100年に一度の」と言われていました。
ー50年や100年、生きていらっしゃらないとは思いますが、その中でも駅ビルが出来たことに近いようなムーブメントや街の変化ってありましたか?県庁が移動したということはそんなに大きくなかったですか?
お父さん それも大きかったな!県庁がお城の中からこの近くに移動して来て、すごくこの辺が発展したという印象だった。当時はこのあたりを「若松通り」から「府内五番街」に変える時に「県庁通り」にしようという動きもあったくらい。
ーお母さんのなかではそんな中でもトイレンナーレは結構ビックイベントだったんですか?OPAMとか駅ビルは?
田崎 OPAMは私にとって全然ビックイベントじゃなかった。駅ビルもまだ2回しか行ってない。パークプレイスも行ったことないし、わさだタウンは3回くらい行ったかな?それも自分から行ったんじゃなくてたまたま誰かに付いて行ってという感じだった。
佐藤 そういうことを言えば、府内町の人がほかの町に行くことってあまりないらしいですね。だから実はトイレンナーレの時に生粋のまちなかの方が打ち上げで中央通りを超えて田崎に来て呑むっていうのも貴重なことなのかもしれない。中央通りが大きいということではないんだけど本当の街の人はそこそこで住んでいるので。
ー意外と街の人って出不精なんですね。
田崎 用事がないですから。トキハに行って迷子になるもん。
ーじゃあお母さんの1日の行動範囲ってどのくらいなんですか?
田崎 一歩も出ない時もあるよ(笑)用事がないから。トキハの地下は用事があって行きますけどパン屋さんとか。トキハの地下をあてもなくぐるぐる歩き回るの、トキハの中が散歩コースだから。結構世間知らずですよ。あそこに新しいお店が出来たとか、そういうことは全然知らない。
佐藤 お母さんはこんな感じなので、駅ビルが出来て街が衰退してしまうんじゃないかと言う人もいた一方で、いろんな立ち位置の人がこの田崎で呑んでいたりするんですよ。それって演出しても出来ないことですよね。公の会合とかはもちろんしているんですけど、そうでないところで呑んで話している場所があるって結構重要なことだと思いますね。
田崎 だからトイレンナーレの時に、有名な列車の関係者がお店に来たから、「列車にトイレンナーレのトイレットペーパーを置いてもらえるかもしれないよ!」って関係者を呼んだりしてましたね。
佐藤 トイレットペーパーを見てもらうと「○○に乗せられるクオリティの紙質じゃない」と言われて、「△△の方なら」と。そういうことは普通にお願いしてもできることではないし、「ここ」だからこそ出来たことだなと思いました。
きっと街のいろんな所にこんな感じのお店とか場所ってあるんだと思います。ここは初めての人でも受け入れてくれるし、そういう出会いも含めてアートフェスティバルと思う人たちもきっといるだろうなと思っています。トイレンナーレの時はなんとなくそれも意識していました。府内五番街という商店街があって、石畳でかっこいいと思ってずーっと奥に進んで行くと、変な酒屋があって昼間からワインの角打ちをやっている、そこまで出会えたら面白いんですよって言って、本当に行く人は行くんですよね。
それって報告書にも出てこないし、見えないことなんだけど、関わった実行委員の人やボランティアのポールさんにはそういうものも考えて作ったアートフェスティバルということを感じている人もいて、アートを活かしたまちづくりとしてトイレンナーレをしましたと言った時に、そこまでセットで形になったと思っています。
田崎 やっぱり縁の下にどれだけ人がいるかということでしょうね。近所の人にも説明したりする時思ったんだけど、トイレンナーレは説明が難しかった。「アート」と結びつけないと悪かったんでしょ?トイレンナーレを続けて行くという時には、アートとは関係のないトイレンナーレがあってもいいんじゃないかな。トイレンナーレという言葉だけは残して。今年は作品も何もないけど、トイレ掃除だけでもやろう、みたいな。
佐藤 お父さんが言ってくれたけど、本当に「運動」だと思います。「運動」になるものが「アート」と後から言われるものになるのかもしれないですね。
田崎 だって「アート」って一番わからないもの。興味をもつということが大事というかね。
ー来年もアートフェスティバルがあるんですけど、それに対する期待は何かありますか?
田崎 人がいっぱい来てくれたらいいですけどね。
佐藤 国民文化祭があって、ラグビーW杯があって、オリンピックの時にどう繋がるのかわかりませんが、それにかこつけてみんなで酒を呑んで盛り上がってわーわー言っていたら経済がまわるみたいなことがあるといいですね。
ー佐藤さんは外国人が大分のまちなかに来たらどこをお勧めしますか?府内城を再建するという話はどう思いますか?
佐藤 お城は建てた方がいいに決まってると思います!
田崎 そんなに必要ないと思いますけど…。
佐藤 外国人…難しいですね。県外の人が来た時には、このあたりの街中を案内してアクアパークのトイレの作品を見せて、マルタン・マルジェラってカタカナ看板があって、って話をします。超有名店ですけど、実はそういうのを持ってこれるブティックの人がいるのが大分の凄さというか。
田崎 むかし民芸ぶんごさんの隣にあるクロマニヨンというお店が、大きなろうそくをたくさん売り出したんですよ。何なんだろう?と思っていたら広末涼子の旦那さんのキャンドル・ジュンの作品で、わかった途端に全部売り切れてた。
佐藤 近すぎて気づきにくいかもしれないけど、すごい人だったりちゃんとした蓄積が街にはあるんですよね。
田崎 最近来た有名人は秋山祐徳太子かな。
佐藤 この名前が出るのがすごいですよね!
ーそれではこのあたりで締めましょうか。
佐藤 なんだか路上観察学会の事をあまりしゃべりませんでしたね…。
田崎 いつもあなた忙しそうだから病気しないように…家でトマソンにならないようにね!
佐藤 すごい!アートジョークですね。(笑)